演歌歌手で有名な坂本冬美さん58歳
そんな坂本冬美さんの面白いエピソードが6月13日BS朝日【高見沢俊彦の美味しい音楽美しいメシ】で語られた。
THE ALFEEのアルバム『THE ALFEEトリビュート・アルバム 五十年祭』の中の曲 『COMPLEX BLUE -愛だけ哀しすぎて-』を高見沢俊彦が作り坂本冬美さんが歌っている。
高見沢俊彦のラジオ番組のゲストとしても出演している。
そんなお二人のトークで坂本冬美さんのデビューに至る前の、高校卒業したてで、就職した工場
また、デビューになる前の猪俣孝昭さんの内弟子時代の秘話
デビュー後演歌界の上下関係は?!をお届けします。
坂本冬美の前職は梅ぼし工場
1967年3月30日生まれの坂本冬美さん58歳は、小学4年生で石川さゆりさんの『津軽海峡冬景色』を聴いて歌手になりたいと思ったそうです
しかし、歌手になるためのなり方がわからない。
当時のオーディション番組【スター誕生!】に応募したが、返事が来なかったそうです。
高校卒業で就職をしたのは、地元和歌山の梅ぼし工場、株式会社ウメタ。
仕事内容は、塩分と酸度を測る仕事をしていたそうです。
その工場の近くにカラオケサークルをしている方がいて、坂本冬美さんの歌を録音。
NHKの【勝ち抜き歌謡天国】にテープを送ってくれて、出場が決まった。
その番組は著名な作曲家の先生のレッスンを5分受けて、ステージで披露するという番組で、坂本冬美さんは猪俣孝昭さんと組むことで、優勝しました。
猪俣孝昭さんに「歌手になりたいか?」と聞かれ
「歌手になりたいです。」と答え
「連絡する。」と言われ
その後和歌山から上京し内弟子になりました。
梅ぼし工場の勤務はわずか1年でした。
内弟子時代は突然運転手に!
和歌山から上京し猪俣孝昭さんの内弟子になり、掃除・選択・料理とこなす毎日でした。
内弟子になりたての頃には、先輩運転手がいたそうです。
先輩運転手が「おまえ免許証もってるか」ときいてきたので、
「持っているけど軽自動車しか運転したことないです。しかも高速が和歌山にはないので、乗ったことないです。」
と伝えていた。
「免許持っていればいいよ」とそういって先輩運転手がいなくなった。

坂本冬美さんしかいなくなり、急遽運転手となり猪俣孝昭さんのベンツを運転することになった。
前は見えないので、座布団をお尻と背もたれにいれて、必死に運転したそうです。
駐車場で高級車ベンツをガリガリこすったり、サイドブレーキを引いたまま高速道路を走った失敗談を持つことは、かなり有名な話です。
突然都会の運転手になるのは怖かったでしょうね。
演歌歌手の上下関係は?!
内弟子からわずか、7~8ヶ月でデビューとなり、トントン拍子で現在に至っています。
演歌界の上下関係は、今ではわりと緩くなってきていますが、それなりにありました。
たとえ廊下で挨拶しても、楽屋に挨拶に行くのは当たり前だったようです。
それでも、先輩方は優しい人が多かったようです。
大きな声では言えないが…と
一流と言われる先輩がたは本当に優しかったそうで、中途半端に売れている人は…
ということを教えてくれました。
それは、演歌界だけではないのかもしれないですね。
坂本冬美の前職は梅ぼし工場で内弟子時代は突然運転手に!まとめ
今回お伝えしたのは、
坂本冬美さんの前職は梅ぼし工場、株式会社ウメタ勤務で、塩分と酸度を計測する仕事をしていた。
猪俣孝昭さんの内弟子に入ったときにいた先輩運転手は、
坂本冬美さんが免許を持っていることを確認していなくなった。
急遽運転手になった。
演歌界の上下関係はそれなりにあり、
一流と言われる先輩がたは本当に優しかったそうで、中途半端に売れている人は…
と言うことです。
これからも、演歌界を盛り上げて、行くことと思いますので、応援していきましょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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